【雑記】平和な立ち方

駅のホームで回りを見渡すと、崩れた姿勢で立っている人を目にすることが多い。
そういった人たちは、電車が来るまでのほんの数分の間に何回も態勢を変え、
疲れが一か所に溜まらないようにしている。
立ち方が安定していないのだ。だから姿勢の不安定なところ、気が淀んでいる
ところに負荷がかかる。自分で自分を疲れさせているのである。

 

電車に乗ったところで同じである。
乗車口の脇、運行中の乗車ドア、車両の先頭と末尾、みんな壁に寄りかかる。
これも結局のところ、楽なわけではないのだ。みんな楽だと錯覚しているだけで、
壁に寄りかかり続けるために足は余計に踏ん張っているし、電車の揺れに合わせて
手でバランスを取っていたりする。

 

それなのに、みんなそのことに無自覚だ。朝の通勤通学で目的地に到着
したころにはなぜか体が疲れている。
もしかしたら、その疲れすら意識できていないのかもしれない。
みんな他のことに夢中なのだ。電車に乗っている人は、みんな片手に携帯電話や
小説や参考書を持ち、耳にはイヤホンが刺さっている。
意識はすべてそちらにあるのだ。だから、電車に乗って、一度自分の定位置を
確保してしまえば、目的の駅に着くまでの間、体のことはすっかり忘れ去られる。

 

無自覚な疲れというのは危険である。知らず知らずの内に、自分を、または
周囲を不幸にしている可能性がある。疲れているときは、元気なときなら
気にならないような些細な悪口や、ちょっと肩がぶつかっただけのことでも
気持ちがささくれ、怒りたくなってしまったりすることがある。
それが疲れのせいだとわかっていれば、その人は怒り出すことなく、
これからやろうとしていることを辞め、早く帰宅して布団に入って眠ることだろう。
これが無自覚な疲れの場合、気持ちに逆らうことができず怒り出してしまう。
その人には、些細な悪口や肩をぶつけてきたことしか頭にないので、
それを真の原因であるかのように勘違いしてしまうのだ。
しかもこれが頻繁に繰り返されるようになると、自分は怒りやすい人間なんだと
いった誤った思い込みに発展してしまったりする。こうなってしまうと、
その人は自分に貼り付けたレッテルに支配されてしまい、
もう疲れていようが疲れていまいが関係なく、どんな些細なことにでも
怒り出すようになってしまう。まさに不幸である。

 

平和な立ち方は安定した立ち方であろう。安定しているのであれば、
最も負担が少なく、疲れないような立ち方である。ちょっとした揺れや
誰かがぶつかってきてもふらつくことはなく、逆にいつでもどこでも
前後左右自分の思い通りに動くことができる。

 

人それぞれ骨格や身体感覚は異なるであろうから、一様にこういった立ち方と
いうことはできないが、いくつか平和な立ち方ができているかどうかを、
日常生活の中で確認する方法を思いついた。

 

まずは一番シンプルに、同じ姿勢でずっと立ち続けてみることである。
数分もしない内に足が疲れてしまったり、腰が痛くなってしまう
ようなら、それは良い立ち方とは言えないだろう。
例えば、片足だけ痛くなるようなら、そちら側に体重が偏っているだとか、
腰が痛くなるようなら、体が反り気味だとか、その時々の身体感覚から
自分の姿勢を点検して改善していく。そうすると次第に疲れにくい立ち方が
できるようになっていくだろう。

 

私の場合はもう一歩進んで、これを電車内で行っている。
壁に寄りかかることをせず、吊革に捕まることもせず、電車の揺れで足の裏が
通路から浮かされることなく立っていられるように立ち方を鍛えている。

 

これに慣れてきて、吊革に捕まらなくてもそれほど揺られることなく安定して
立っていられるようになった時、私は電車内で少しだけ自由になった。
電車の座席に座ることはなく、壁も吊革も必要としないため、車両内の通路の
どこにでも立っていることができるのだ。
これによって、電車に乗車するとき、椅子取りゲームをすることもなく、むしろ
全員が乗り切ることを待ってから、ゆっくりと安全に乗車するような気持ちの
ゆとりが生まれた。
もしもみんながこのような立ち方を会得したならば、朝の満員電車や
電車の遅延の何割かは解消されるのではないかと思う。

 

平和は一人一人の心の余裕から生まれる。
心の余裕を生み出すのは、日々の立ち振る舞いである。
一朝一夕でできるものではない。精進するべし。