【雑記】鍛えること

私は一時期、ジムに通っていたことがある。
ジムには、体を鍛えるための様々な器具が置かれており、
プールがあり、決められた時間に多種多様なレッスンが
至る所で行われており、運動後に汗を流すためのシャワーや
サウナがあった。
そこにはもちろんのこと、これも様々な人が様々な目的で
様々な部位を鍛えている光景を見ることができた。

 

私もそのうちの一人であった。
自分で鍛える部位を考え、器具を選択し、回数と重さを設定して、
それを黙々とこなした。
最初は苦しかった鍛錬が、何か月か繰り返していく内に余裕が
生まれ、次第に回数が増えていき、重い負荷にも耐えられる
ようになっていく。
それは確かに、純粋な喜びがあったように思う。

 

しかしこれが仕事の都合や日々の疲れなどによりジムに通うことが
困難となると、今まで鍛えてきた筋肉が衰え、場合によってはジムに
通い始める前の状態へと体が戻ってしまうこともある。
このような事態とならないために、一度鍛えた筋肉を維持するために、
必死にジムに通い続けるようになってしまっていたとしたら、
これは喜びがある状態ということができるのであろうか。

 

ここで私は考える。体はどのように鍛えるべきかについて。

 

たとえば見た目を良くするために体を鍛えていたとする。
これはあまり良い選択ではないように思える。なぜならば、
自分の体は、自分の思い通りの見た目になるとは限らないからである。
いくら食事に気を付けようと、いくら科学的に根拠のある鍛え方をしようと、
自分の心臓を思い通りに動かせないのと同様に、自分の理想通りの
肉体を手に入れることなどできない。細部まで見始めてしまえば、
必ずどこかに気に入らない点を見出すことであろう。

 

それでは上記したように、筋トレを繰り返すことによって
筋力を増すことを喜びにするべきであろうか。
これは二律背反で、喜びと同時に恐怖を抱えてしまう。
それに人間は加齢とともに肉体も衰えていくものである。
この自然法則に抗う術はないとするならば、不幸を避けることは
できそうにない。

 

私が思うに体を鍛えることの主眼は、日常生活において
疲れないようにすることなのではないかと思った。
それは、ある部位の筋肉を何cm大きくして、といった細部の話ではなく、
もっと大枠の、動作や作法に近い話である。

 

例えるとすれば、野球選手がバットを振るための筋力を、腕立て伏せを
するのではなく、素振りによって鍛えるのと考え方としては似ている。
前者では筋力を増やすことのみによる解決を目指すが、後者では逆に
力を抜くことによって解決することがある。力を抜くことにより、
無駄な力みや滞りがなくなり、滑らかにバットを振ることができる
ようになる。もちろん力を抜いているのだから、体への負担は
減っている。このような体の使い方、動かし方を身に着けることも、
体を鍛えると呼べるのではないか。

 

そう考えると、あえて腕立て伏せや腹筋のような、筋肉の部位を
膨らませるようなことをしなくても、日常生活の動作を、
如何にすれば疲れないものとなるか意識しながら行動するだけで
それが鍛錬となる。

 

それに、この鍛錬には二律背反は起こりにくい。
鍛錬することが日常生活と直結しているため、そもそも鍛錬しない
という状態そのものがありえない。
また、加齢による筋力の衰えがあったとしても、
熟達した体の動かし方は日々練り上げられていくため、
筋力の衰えをそれほど苦に感じないのではなかろうか。

 

私は現在、ジムに通っていない。
鍛錬の要素である反復と上達は、日常生活の中に存在していると
気づいたからである。
きっと幸福な人は、疲れない体を持っている。
疲れない体は、日常の中の鍛錬によって生まれる。