【雑記】平和な歩き方

平和な歩き方について考えることがある。
それはどのような歩き方なのだろうか。

 

平和な歩き方は、疲れない歩き方だろう。
どれだけ長い距離を歩こうと、どれだけ重い荷物を背負って
いようと疲れることはない。
疲れないということは、それだけ無駄がないということだ。
体のどこにも余計な力は入っておらず、全ての部位が
歩くために最適な動きをする。
すなわち自分自身の体が争うことなく、目的のために力を
合わせている状態である。

 

平和な歩き方は、美しい歩き方だろう。
誰が見ても、誰に接しても不快な気持ちにさせることはない。
それは歩いている本人にしても同様であり、歩くことによって
心が洗われていく。歩けば歩くほど健康となり、周囲も明るく
なっていく。それは表情にも表れる。美しい歩き方であるならば、
美しい表情でなければならない。

 

平和な歩き方は、静かな歩き方だろう。
足を前に進める時も、足を地面に下ろす時も、どこにも憤りは
なく、ぶつかるようなこともない。まるで重力でもないかのように
軽やかに、そしてしなやかに、地面に対して踏みつけるという
表現ができないほどに、優しさと温もりに溢れた足運びとなる
だろう。自分の歩んできた道を振り返っても、そこに傷ついた
ものを見ることはない。

 

平和な歩き方は、安定した歩き方だろう。
人混みであろうが山道であろうが獣道であろうが、どのような
道でも態勢を崩すことなく、自分の意のままに進むことができる。
それは変幻自在な歩き方である。危険があれば即座に立ち止まり
、走り、飛び跳ねることができる。
安定した歩き方により、危険を回避することができ、自分を、
そして周囲を安全へと導くことができる。

 

平和な歩き方を身に着けなくてはならない。
なぜなら、平和な歩き方を身に着けることで、文字通り、平和に
一歩近づけると思うからである。

 

都市に住む人々の歩き方を観察していると、平和な歩き方とは
異なる所作を見ることができる。
常に何かに追われるように早歩きをし、人混みでは我先にと
見ず知らずの人を押しのけ、眉間に皺を寄せ、舌打ちをし、
視野は狭く、耳にはイヤホンを詰め込み、何が憎いのか地面を強く
踏みしめ、ちょっとした段差で躓きそうになり、自分の進路に
植物があろうとゴミがあろうと気にすることはなく、
それどころかゴミをポイ捨てし、回り道が面倒であるからと
花壇に踏み込み、歩くことに辟易して、立ち止まればすぐに壁に
寄りかかり、座り込み、疲れた顔をしながら愚痴をこぼしている。

 

みな歩くことに無意識なのだ。反復運動により足は自然と前に
進む。一度リズムを掴んでしまえば、特に意識をすることはない。
疲れていようが疲れていまいが、体の状態にはお構いなく、
いつも通りに歩くことができる。その間、意識はその瞬間には
向いておらず、まだ見ぬ未来か、はたまた過ぎ去りし過去へと
旅立ってしまっている。
これにより、体は無意識の内に疲れ、歩き方も不作法となり、
周囲の人々には不快感を与え、またそのことに気づくこともできず、
危険を察知することも回避することもなく、それどころか
不用意に自ら危険に近づき、それでいて危険な目にあったのならば
自分が悪いのにも関わらず腹を立て、怒鳴り散らし、ときには
喧嘩となって、不要な争いが生まれる。

 

このような不幸のいくつかは、歩き方を少し意識するだけで
改善されるであろう。良い歩き方が身に着いてくれば、心身は健康
となり、周囲にも目が向くようになっていく。そして次第に、
歩くことそれ自体に楽しみを見出すことだろう。そうなって初めて、
平和な歩き方を体得するための土台を手に入れたことになる。

 

とはいえ、私もまだ平和な歩き方を体得できたとは、とてもでは
ないが言うことができない身である。
これからも精進を重ね、平和な歩き方がどのようなものであるか
試行錯誤を続けていきたいと思う。