【雑記】煙草のポイ捨て

煙草をポイ捨てする人を見た。
商店街の通りにある小さな青果店の前で、道路に叩きつけるように
煙草を捨てた。その人は煙草の火を足で消すこともなく、
そのまま青果店の中へと入っていった。

 

煙草のポイ捨てをする人を見るたびに、その人はどのような人なのか
を考える。

 

たとえば、人目を気にしているのかどうか。
煙草のポイ捨てをしている人がみんな人目を気にしないのかというと、
案外そういうわけでもない。
観察していると、以外に人目を気にしている人が多いことに驚く。

 

道端で咥え煙草をしている人も、大通りで堂々と吸っているところは
あまり見かけず、だいたい裏通りや人気の少ない場所で吸っている。
人混みの中では、歩行者に見えないように、もしくは煙草の火が
歩行者に触れないように、手のひらに隠すように持つ。
捨てる時には排水溝に落としたり、飲んでいた缶コーヒーに入れたりする。
コンクリートの地面にそのままポイ捨てした場合だって、火災の心配も
ないのに足で踏んで煙草の火を消したりする。

 

喫煙者はそれが最低限のマナーだと考えているのかもしれない。
または、だんだんと社会が喫煙者に対して規制が厳しくなってきて、
煙草を吸う場所も限られてきたことや、世間の視線が冷たいこともあり、
煙草を吸うというだけでも何か見えない圧力のようなものを感じていて、
知らず知らずの内にそのような行動をしてしまっている可能性もある。

 

だが、それらのことを考慮したうえで、なぜポイ捨てをしてしまうのか。
喫煙場所が減ったのならば、携帯できる灰皿を持ったらよいではないか。
人の迷惑となるならば、人気のないところで吸ったらよいではないか。
私はそこまで喫煙に対して否定的ではない。吸いたい人は吸えばよい。

 

要は礼儀の問題だろう。
喫煙者が嫌煙家に気を使って、迷惑とならないような場所で煙草を
楽しみ1人不健康になるのならば、誰も文句は言うまい。
それこそ、その人の勝手である。それが人混みの中で煙草を吸って、
その吸い殻を歩道に捨てるから問題となるのだ。

 

冒頭で取り上げた煙草をポイ捨てする人だが、この人は完全に
人目を気にしていなかった。煙草は青果店の前に堂々と捨て去られ、
火も消されないまま煙草の先端からは煙を漂わせ続けていた。
周りには歩行者や買い物客もいたのにである。

 

なぜこのようなことができるのか。
きっとこの人には周りの人は目に映っていないのだろう。
そうでないならば、目の前の女性の不快な顔を見て
平然としていられるはずがないからだ。


人と人との関係が希薄になってきている。目の前にいて、手を伸ばせば
触れることもできる人ですら、さも自分と関係がないかのように振る舞える。
それでいて、目の前にいるわけでもない芸能人の色恋沙汰に
一喜一憂をしている。自分の人生を考えたうえで、どちらを優先して
考えなくてはならないかなど火を見るよりも明らかであろう。
画面の向こうにいる芸能人は、自分が困っているときに手を差し伸べて
くれることはない。

 

文明が進歩して、それほど苦労して働くことをしなくても生きていける
ようになったことで、1人で生きていると錯覚している人が増えている
のかもしれない。人生における危機意識の欠落。自分が不幸に陥る可能性に
考慮する想像力の欠如。これがそのまま周囲の人に対する不作法に繋がって
いるような気がする。

 

私は、幸福になるためにはまず不幸を回避することを考えるべきだと思う。
このことは、ラッセルさんの幸福論を読むとよくわかる。
ラッセルさんの幸福論は2部構成となっており、前半部分が不幸の原因について、
後半部分が幸福をもたらすものについて明快に書かれているのだが、私が思うに、
前半部分を読み飛ばして後半部分だけ読んだとしても、
決して幸福にはなれないだろう。それは、幸福になろうと行動をする中に、
必ず不幸になる要素が潜んでいるためだ。きっとラッセルさんはそのことを
理解したうえで、幸福について言及する前に不幸について書いたのだろうと思う。

 

不幸を回避するためには、必ず礼儀作法が必要となる。
そうすれば周囲の人にも気遣いができるようになり、煙草をポイ捨てすることも
できなくなるであろう。

 

私の夢の1つは、この世界からゴミをなくすことである。
平和な世界を考えたとき、そこにゴミは存在しないと思うからだ。
そこでは全てのものは必要とされて、全てのものは循環している。
平和な世界を目指して。