【雑記】幸福になるための条件

幸福になるために必要なものは何か。

 

幸福になるためにはたくさんの価値あるものが必要と考える人がいたとする。

なんでも話せる友人、美しい彼女、有り余るお金、贅沢な食事、健康な肉体・・・。

なんでも話せる友人を見つけるために大勢の人に話しかける。

美しい彼女に出会うために社交場に出かける。

有り余るお金を手に入れるために金融に手を出す。

贅沢な食事のために世界中を旅する。

健康な肉体を手に入れるために、フィットネスクラブに通う。

なんでもかんでも手に入れようとする生き方で幸福になることは大変である。

欲望に際限はないから。

 

逆に何も望まない人がいたとする。

友人も彼女もお金も食事も肉体もいらない。

その人はいつも1人だ。

お金も持っていない。だから財布もない。

食事も取らない。歯はないかもしれない。そもそも肉体すらいらないと考えているのだ。口は退化してなくなっているかもしれない。

何もかもいらないという生き方で幸福になることは大変である。

たくさんの苦しみに耐えなくてはならないから。

 

これは極端な例ではあるが、多かれ少なかれ、みな幸福になるために、それぞれ何かを選んでいる。

何が必要で何が不要か。どれに優先順位を置くのか。

そして、その選んだものに対して自分がどれだけ満たされているか。

この価値判断の違い、また現在の状態との差異によって、人々の幸福に差が出てしまっているのだろう。

 

では、もしも幸福になりたいと思ったら、どう考えるのが賢明であるのか。

それはまた別の機会に考えたいと思う。

【雑記】平和な歩き方

平和な歩き方について考えることがある。
それはどのような歩き方なのだろうか。

 

平和な歩き方は、疲れない歩き方だろう。
どれだけ長い距離を歩こうと、どれだけ重い荷物を背負って
いようと疲れることはない。
疲れないということは、それだけ無駄がないということだ。
体のどこにも余計な力は入っておらず、全ての部位が
歩くために最適な動きをする。
すなわち自分自身の体が争うことなく、目的のために力を
合わせている状態である。

 

平和な歩き方は、美しい歩き方だろう。
誰が見ても、誰に接しても不快な気持ちにさせることはない。
それは歩いている本人にしても同様であり、歩くことによって
心が洗われていく。歩けば歩くほど健康となり、周囲も明るく
なっていく。それは表情にも表れる。美しい歩き方であるならば、
美しい表情でなければならない。

 

平和な歩き方は、静かな歩き方だろう。
足を前に進める時も、足を地面に下ろす時も、どこにも憤りは
なく、ぶつかるようなこともない。まるで重力でもないかのように
軽やかに、そしてしなやかに、地面に対して踏みつけるという
表現ができないほどに、優しさと温もりに溢れた足運びとなる
だろう。自分の歩んできた道を振り返っても、そこに傷ついた
ものを見ることはない。

 

平和な歩き方は、安定した歩き方だろう。
人混みであろうが山道であろうが獣道であろうが、どのような
道でも態勢を崩すことなく、自分の意のままに進むことができる。
それは変幻自在な歩き方である。危険があれば即座に立ち止まり
、走り、飛び跳ねることができる。
安定した歩き方により、危険を回避することができ、自分を、
そして周囲を安全へと導くことができる。

 

平和な歩き方を身に着けなくてはならない。
なぜなら、平和な歩き方を身に着けることで、文字通り、平和に
一歩近づけると思うからである。

 

都市に住む人々の歩き方を観察していると、平和な歩き方とは
異なる所作を見ることができる。
常に何かに追われるように早歩きをし、人混みでは我先にと
見ず知らずの人を押しのけ、眉間に皺を寄せ、舌打ちをし、
視野は狭く、耳にはイヤホンを詰め込み、何が憎いのか地面を強く
踏みしめ、ちょっとした段差で躓きそうになり、自分の進路に
植物があろうとゴミがあろうと気にすることはなく、
それどころかゴミをポイ捨てし、回り道が面倒であるからと
花壇に踏み込み、歩くことに辟易して、立ち止まればすぐに壁に
寄りかかり、座り込み、疲れた顔をしながら愚痴をこぼしている。

 

みな歩くことに無意識なのだ。反復運動により足は自然と前に
進む。一度リズムを掴んでしまえば、特に意識をすることはない。
疲れていようが疲れていまいが、体の状態にはお構いなく、
いつも通りに歩くことができる。その間、意識はその瞬間には
向いておらず、まだ見ぬ未来か、はたまた過ぎ去りし過去へと
旅立ってしまっている。
これにより、体は無意識の内に疲れ、歩き方も不作法となり、
周囲の人々には不快感を与え、またそのことに気づくこともできず、
危険を察知することも回避することもなく、それどころか
不用意に自ら危険に近づき、それでいて危険な目にあったのならば
自分が悪いのにも関わらず腹を立て、怒鳴り散らし、ときには
喧嘩となって、不要な争いが生まれる。

 

このような不幸のいくつかは、歩き方を少し意識するだけで
改善されるであろう。良い歩き方が身に着いてくれば、心身は健康
となり、周囲にも目が向くようになっていく。そして次第に、
歩くことそれ自体に楽しみを見出すことだろう。そうなって初めて、
平和な歩き方を体得するための土台を手に入れたことになる。

 

とはいえ、私もまだ平和な歩き方を体得できたとは、とてもでは
ないが言うことができない身である。
これからも精進を重ね、平和な歩き方がどのようなものであるか
試行錯誤を続けていきたいと思う。

 

【雑記】体調不良

仕事が忙しくなると体調を崩す人がいる。
何か新しい仕事を振られる、もしくは何か問題が発生して
予定通りに仕事が進まなくなると、仕方がなく残業をする。
それが数日、数週間と続くと、体調を崩し、朝の出社が
遅くなり、業務中に咳をし始め、不機嫌となり、
最後には仕事を休むようになり、仕舞には辞めてしまったりする。

 

何も珍しいことではなく、あらゆる職場でみられる光景であろう。
誰もがこれを当たり前のことのように考えている。
仕事が忙しくなれば体調は崩れるものだというのだ。
だがしかし、これは果たして本当なのであろうか。

 

私は一概に仕事が悪いとは言えない気がしている。
むしろ仕事は健康に良いものだとすら思っている。
人生に活力を与え、誰かの役に立ち、世の中が豊かになる。
仕事を通じて人間として成長ができる。誰もが自分の個性や能力を
活かして、誰かのために働き、必要とされ、感謝される。
仕事とはそういうものだと思う。

 

悪いのは仕事それ自体ではなく、その働き方のほうにあるのだろう。
ヒルティさん著の幸福論第一部の最初の章は
「仕事の上手な仕方」となっていることからも、働き方の重要性が
うかがわれる。

 

この「仕事の上手な仕方」の冒頭で、休息について触れている。
少しだけ休息について書かれている箇所を抜粋させていただく。

 

「ひとの求める休息は、まず第一に、肉体と精神とをまったく
働かせず、あるいはなるべく怠けることによって得られるのではなく、
むしろ反対に、心身の適度な、秩序ある活動によってのみ得られる
ものである」

 

「本当の休息はただ活動のさなかにのみあるのである」

 

これは誰しも、自分の休日の過ごし方を考えてもらえば理解できると
思う。何もせず、ただずっと布団の中で夢見心地のまま
一日を過ごしてみたならば、何もしていないにも関わらず
淀んだ倦怠感のようなものを覚えることだろう。
これが逆に、自分の興味のあることや、趣味や習い事を
しているときというのは、いくらやっても体中に活力がみなぎっており、
疲れすら充足感となる。要はそれを仕事でも感じられるようになれば
良いわけである。

 

ここで問題となるものは、いかにして仕事に興味を持つかである。
たとえば好きなことを仕事にしようと考えたとする。これも解決策の
一つではあるだろうが、いくつか欠点があるように思う。

 

まず、その好きなことに世間の需要がまるでなかったとしたら。
貧窮した生活の中、世間の理解を得られるまで耐え忍んで
その好きなことを続けていくことができるのか。それで成功した
人間もいるのかもしれないが、限りなく少ないことだろうと思うし、
自分のことしか考えておらず、ただ好きなことがやっていたいという
人間は成功などできるはずもない。それに、たとえ成功できたとしても、
その好きだと思っていたことが、何かがきっかけで好きでは
なくなってしまったら、その時はどうするのか。
仕事の動機を好きなことのみにしてしまったとしたら、
好きではなくなった仕事を続けることは苦行でしかないし、もしもそれに
耐えることができず辞めてしまったとしたら、その人の仕事を必要と
していた人たちを裏切ることになる。

 

私は逆方向から考える。それは自分の好きなことを仕事にするのではなく、
仕事を好きになるべきであると。それは自分の目の前にあるやるべきことを
目を背けることなく全力で向き合うことである。どのような仕事であれ、
正面から真面目に取り組めば、必ず楽しみを見出すことができると
私は思っている。

 

仕事に楽しみを見出すことができない人は、きっと働き方がうまくない
のであろう。上司から仕事を振られれば悪意でもって受け取り、
作業の遅い同僚に怒りを覚え、終わりの見えない仕事の山に落胆の
溜息をついてしまう。これが職場のみでなく私生活にまで及び、
心が休まる時がなく、疲れが蓄積され、いつしか仕事自体が悪いのだと
錯覚し、この仕事から解放されるために、自ら体調を崩したり、
仕事に出てこれなくなってしまったりする。まったく不幸である。

 

大事なことは、仕事を善意でもって受け取ることである。
上司は部下をいじめるために仕事を与えているのではなく、みなで
協力して良い仕事を成し遂げたいのである。作業の遅い部下は自分の
最善を尽くして作業をしているし、まだ要領を掴めていないだけである。
終わりの見えない仕事は、一つ一つ分解して考えれば、やるべきことが
見えてくる。そして従事している仕事が本当の仕事であるならば、
仕事の成果は誰かひとりが享受するものとはならず、それに携わった
すべての人々に幸福をもたらす。

 

このような心構えはそう簡単にできるものではない。なぜなら人は
何もしなければ自然と機嫌が悪くなってしまうものだから。そのため、
良い働き方を習得するには鍛錬が必要となる。それはその仕事を
する上での技術を会得することも去ることながら、それ以上に、
礼儀作法をわきまえることが肝心である。これによって人は、
仕事を通じて社会人として、人間として成長を遂げるのだ。

 

人混みやメディアを見ていると、どうにも仕事が悪いもののような
風潮が広まっている。「働いたら負け」だとか
「仕事が嫌になったら辞めれば良い」などの薄っぺらい言葉が聞こえて
くるたびに、我儘で聞き分けのない子どもっぽさをそこから感じ取って
しまう。

 

豊かになった現代では、今までにない様々な仕事が存在しているし、
多くの人が働かなくても生活が可能となってきたわけではあるが、
それでも仕事自体の本質は変わらないと思っている。
このまま仕事を嫌い、仕事から離れていく人が増加していったならば、
果たしてその社会は幸福と言えるものなのだろうか。
この豊かな時代に適合する仕事の在り方について、改めて考える必要が
あるのかもしれない。

 

【雑記】煙草のポイ捨て

煙草をポイ捨てする人を見た。
商店街の通りにある小さな青果店の前で、道路に叩きつけるように
煙草を捨てた。その人は煙草の火を足で消すこともなく、
そのまま青果店の中へと入っていった。

 

煙草のポイ捨てをする人を見るたびに、その人はどのような人なのか
を考える。

 

たとえば、人目を気にしているのかどうか。
煙草のポイ捨てをしている人がみんな人目を気にしないのかというと、
案外そういうわけでもない。
観察していると、以外に人目を気にしている人が多いことに驚く。

 

道端で咥え煙草をしている人も、大通りで堂々と吸っているところは
あまり見かけず、だいたい裏通りや人気の少ない場所で吸っている。
人混みの中では、歩行者に見えないように、もしくは煙草の火が
歩行者に触れないように、手のひらに隠すように持つ。
捨てる時には排水溝に落としたり、飲んでいた缶コーヒーに入れたりする。
コンクリートの地面にそのままポイ捨てした場合だって、火災の心配も
ないのに足で踏んで煙草の火を消したりする。

 

喫煙者はそれが最低限のマナーだと考えているのかもしれない。
または、だんだんと社会が喫煙者に対して規制が厳しくなってきて、
煙草を吸う場所も限られてきたことや、世間の視線が冷たいこともあり、
煙草を吸うというだけでも何か見えない圧力のようなものを感じていて、
知らず知らずの内にそのような行動をしてしまっている可能性もある。

 

だが、それらのことを考慮したうえで、なぜポイ捨てをしてしまうのか。
喫煙場所が減ったのならば、携帯できる灰皿を持ったらよいではないか。
人の迷惑となるならば、人気のないところで吸ったらよいではないか。
私はそこまで喫煙に対して否定的ではない。吸いたい人は吸えばよい。

 

要は礼儀の問題だろう。
喫煙者が嫌煙家に気を使って、迷惑とならないような場所で煙草を
楽しみ1人不健康になるのならば、誰も文句は言うまい。
それこそ、その人の勝手である。それが人混みの中で煙草を吸って、
その吸い殻を歩道に捨てるから問題となるのだ。

 

冒頭で取り上げた煙草をポイ捨てする人だが、この人は完全に
人目を気にしていなかった。煙草は青果店の前に堂々と捨て去られ、
火も消されないまま煙草の先端からは煙を漂わせ続けていた。
周りには歩行者や買い物客もいたのにである。

 

なぜこのようなことができるのか。
きっとこの人には周りの人は目に映っていないのだろう。
そうでないならば、目の前の女性の不快な顔を見て
平然としていられるはずがないからだ。


人と人との関係が希薄になってきている。目の前にいて、手を伸ばせば
触れることもできる人ですら、さも自分と関係がないかのように振る舞える。
それでいて、目の前にいるわけでもない芸能人の色恋沙汰に
一喜一憂をしている。自分の人生を考えたうえで、どちらを優先して
考えなくてはならないかなど火を見るよりも明らかであろう。
画面の向こうにいる芸能人は、自分が困っているときに手を差し伸べて
くれることはない。

 

文明が進歩して、それほど苦労して働くことをしなくても生きていける
ようになったことで、1人で生きていると錯覚している人が増えている
のかもしれない。人生における危機意識の欠落。自分が不幸に陥る可能性に
考慮する想像力の欠如。これがそのまま周囲の人に対する不作法に繋がって
いるような気がする。

 

私は、幸福になるためにはまず不幸を回避することを考えるべきだと思う。
このことは、ラッセルさんの幸福論を読むとよくわかる。
ラッセルさんの幸福論は2部構成となっており、前半部分が不幸の原因について、
後半部分が幸福をもたらすものについて明快に書かれているのだが、私が思うに、
前半部分を読み飛ばして後半部分だけ読んだとしても、
決して幸福にはなれないだろう。それは、幸福になろうと行動をする中に、
必ず不幸になる要素が潜んでいるためだ。きっとラッセルさんはそのことを
理解したうえで、幸福について言及する前に不幸について書いたのだろうと思う。

 

不幸を回避するためには、必ず礼儀作法が必要となる。
そうすれば周囲の人にも気遣いができるようになり、煙草をポイ捨てすることも
できなくなるであろう。

 

私の夢の1つは、この世界からゴミをなくすことである。
平和な世界を考えたとき、そこにゴミは存在しないと思うからだ。
そこでは全てのものは必要とされて、全てのものは循環している。
平和な世界を目指して。

 

【雑記】平和な立ち方

駅のホームで回りを見渡すと、崩れた姿勢で立っている人を目にすることが多い。
そういった人たちは、電車が来るまでのほんの数分の間に何回も態勢を変え、
疲れが一か所に溜まらないようにしている。
立ち方が安定していないのだ。だから姿勢の不安定なところ、気が淀んでいる
ところに負荷がかかる。自分で自分を疲れさせているのである。

 

電車に乗ったところで同じである。
乗車口の脇、運行中の乗車ドア、車両の先頭と末尾、みんな壁に寄りかかる。
これも結局のところ、楽なわけではないのだ。みんな楽だと錯覚しているだけで、
壁に寄りかかり続けるために足は余計に踏ん張っているし、電車の揺れに合わせて
手でバランスを取っていたりする。

 

それなのに、みんなそのことに無自覚だ。朝の通勤通学で目的地に到着
したころにはなぜか体が疲れている。
もしかしたら、その疲れすら意識できていないのかもしれない。
みんな他のことに夢中なのだ。電車に乗っている人は、みんな片手に携帯電話や
小説や参考書を持ち、耳にはイヤホンが刺さっている。
意識はすべてそちらにあるのだ。だから、電車に乗って、一度自分の定位置を
確保してしまえば、目的の駅に着くまでの間、体のことはすっかり忘れ去られる。

 

無自覚な疲れというのは危険である。知らず知らずの内に、自分を、または
周囲を不幸にしている可能性がある。疲れているときは、元気なときなら
気にならないような些細な悪口や、ちょっと肩がぶつかっただけのことでも
気持ちがささくれ、怒りたくなってしまったりすることがある。
それが疲れのせいだとわかっていれば、その人は怒り出すことなく、
これからやろうとしていることを辞め、早く帰宅して布団に入って眠ることだろう。
これが無自覚な疲れの場合、気持ちに逆らうことができず怒り出してしまう。
その人には、些細な悪口や肩をぶつけてきたことしか頭にないので、
それを真の原因であるかのように勘違いしてしまうのだ。
しかもこれが頻繁に繰り返されるようになると、自分は怒りやすい人間なんだと
いった誤った思い込みに発展してしまったりする。こうなってしまうと、
その人は自分に貼り付けたレッテルに支配されてしまい、
もう疲れていようが疲れていまいが関係なく、どんな些細なことにでも
怒り出すようになってしまう。まさに不幸である。

 

平和な立ち方は安定した立ち方であろう。安定しているのであれば、
最も負担が少なく、疲れないような立ち方である。ちょっとした揺れや
誰かがぶつかってきてもふらつくことはなく、逆にいつでもどこでも
前後左右自分の思い通りに動くことができる。

 

人それぞれ骨格や身体感覚は異なるであろうから、一様にこういった立ち方と
いうことはできないが、いくつか平和な立ち方ができているかどうかを、
日常生活の中で確認する方法を思いついた。

 

まずは一番シンプルに、同じ姿勢でずっと立ち続けてみることである。
数分もしない内に足が疲れてしまったり、腰が痛くなってしまう
ようなら、それは良い立ち方とは言えないだろう。
例えば、片足だけ痛くなるようなら、そちら側に体重が偏っているだとか、
腰が痛くなるようなら、体が反り気味だとか、その時々の身体感覚から
自分の姿勢を点検して改善していく。そうすると次第に疲れにくい立ち方が
できるようになっていくだろう。

 

私の場合はもう一歩進んで、これを電車内で行っている。
壁に寄りかかることをせず、吊革に捕まることもせず、電車の揺れで足の裏が
通路から浮かされることなく立っていられるように立ち方を鍛えている。

 

これに慣れてきて、吊革に捕まらなくてもそれほど揺られることなく安定して
立っていられるようになった時、私は電車内で少しだけ自由になった。
電車の座席に座ることはなく、壁も吊革も必要としないため、車両内の通路の
どこにでも立っていることができるのだ。
これによって、電車に乗車するとき、椅子取りゲームをすることもなく、むしろ
全員が乗り切ることを待ってから、ゆっくりと安全に乗車するような気持ちの
ゆとりが生まれた。
もしもみんながこのような立ち方を会得したならば、朝の満員電車や
電車の遅延の何割かは解消されるのではないかと思う。

 

平和は一人一人の心の余裕から生まれる。
心の余裕を生み出すのは、日々の立ち振る舞いである。
一朝一夕でできるものではない。精進するべし。

 

【雑記】鍛えること

私は一時期、ジムに通っていたことがある。
ジムには、体を鍛えるための様々な器具が置かれており、
プールがあり、決められた時間に多種多様なレッスンが
至る所で行われており、運動後に汗を流すためのシャワーや
サウナがあった。
そこにはもちろんのこと、これも様々な人が様々な目的で
様々な部位を鍛えている光景を見ることができた。

 

私もそのうちの一人であった。
自分で鍛える部位を考え、器具を選択し、回数と重さを設定して、
それを黙々とこなした。
最初は苦しかった鍛錬が、何か月か繰り返していく内に余裕が
生まれ、次第に回数が増えていき、重い負荷にも耐えられる
ようになっていく。
それは確かに、純粋な喜びがあったように思う。

 

しかしこれが仕事の都合や日々の疲れなどによりジムに通うことが
困難となると、今まで鍛えてきた筋肉が衰え、場合によってはジムに
通い始める前の状態へと体が戻ってしまうこともある。
このような事態とならないために、一度鍛えた筋肉を維持するために、
必死にジムに通い続けるようになってしまっていたとしたら、
これは喜びがある状態ということができるのであろうか。

 

ここで私は考える。体はどのように鍛えるべきかについて。

 

たとえば見た目を良くするために体を鍛えていたとする。
これはあまり良い選択ではないように思える。なぜならば、
自分の体は、自分の思い通りの見た目になるとは限らないからである。
いくら食事に気を付けようと、いくら科学的に根拠のある鍛え方をしようと、
自分の心臓を思い通りに動かせないのと同様に、自分の理想通りの
肉体を手に入れることなどできない。細部まで見始めてしまえば、
必ずどこかに気に入らない点を見出すことであろう。

 

それでは上記したように、筋トレを繰り返すことによって
筋力を増すことを喜びにするべきであろうか。
これは二律背反で、喜びと同時に恐怖を抱えてしまう。
それに人間は加齢とともに肉体も衰えていくものである。
この自然法則に抗う術はないとするならば、不幸を避けることは
できそうにない。

 

私が思うに体を鍛えることの主眼は、日常生活において
疲れないようにすることなのではないかと思った。
それは、ある部位の筋肉を何cm大きくして、といった細部の話ではなく、
もっと大枠の、動作や作法に近い話である。

 

例えるとすれば、野球選手がバットを振るための筋力を、腕立て伏せを
するのではなく、素振りによって鍛えるのと考え方としては似ている。
前者では筋力を増やすことのみによる解決を目指すが、後者では逆に
力を抜くことによって解決することがある。力を抜くことにより、
無駄な力みや滞りがなくなり、滑らかにバットを振ることができる
ようになる。もちろん力を抜いているのだから、体への負担は
減っている。このような体の使い方、動かし方を身に着けることも、
体を鍛えると呼べるのではないか。

 

そう考えると、あえて腕立て伏せや腹筋のような、筋肉の部位を
膨らませるようなことをしなくても、日常生活の動作を、
如何にすれば疲れないものとなるか意識しながら行動するだけで
それが鍛錬となる。

 

それに、この鍛錬には二律背反は起こりにくい。
鍛錬することが日常生活と直結しているため、そもそも鍛錬しない
という状態そのものがありえない。
また、加齢による筋力の衰えがあったとしても、
熟達した体の動かし方は日々練り上げられていくため、
筋力の衰えをそれほど苦に感じないのではなかろうか。

 

私は現在、ジムに通っていない。
鍛錬の要素である反復と上達は、日常生活の中に存在していると
気づいたからである。
きっと幸福な人は、疲れない体を持っている。
疲れない体は、日常の中の鍛錬によって生まれる。

 

【雑記】幸福について

幸福とはなんとも掴みどころがないもののように思える。
時代によって、もしくは文化によって、はたまた人によっても異なるのかもしれない。
それでもやはり、どの時代、どの文化、どの人にとっても幸福は欠かせないものであろう。
それならば、幸福について考えることも、決して無駄ではないはずだ。

 

まずは幸福を辞書で引いてみる。

 

幸福
「心が満ち足りていること。また、そのさま。しあわせ」(広辞苑 第七版)

 

やはり抽象的で曖昧である。
ただ、どうやら心の状態、ならびにその心の状態に伴う体の状態であるようだ。
ではどのような時に、人はこのような心の状態となるのであろうか。
現時点では明確な答えを出すことができない。
これを明確にするためには、日常の中から、その断片を見出し、
関連付けて考える他ないように思う。

 

これから私がやろうとしていることは、日常の中から幸福という砂金を
探す作業である。
私の五感を通して日常を観察し、ただの砂粒と砂金を振り分けていく。
こうして集めた砂金を、より粒度の細かい網でもってして精査をしていけば、
残ったその何かは、より幸福に近い何かであろう
(砂金を探したこともなく、この例えがどこまで適切であるかは甚だ怪しい
ところであるが)。

 

網として使うものは、先人の知恵である。
特にその根幹を成すものは、ラッセル・アラン・ヒルティが書き残した
三大幸福論とも呼ばれている本である。
これらの本は現代よりも何十年も前に書かれたものではあるが、
人間についての深い考察と英知に富んでいる。
私がやろうとしていることを別の言い方で表現するならば、
これらの過去の英知を現代に当て嵌めてみたときに、
何が見えてくるのかを検証することである。

 

気を付けたいこととして、この幸福探しのための作業の目的であるが、
「幸福論」のような理路整然とした論文を書くことではなく、
あくまでも日常の一部分を切り取って、そこから得られた知見を
書き連ねていくことにある。そのため、内容は雑記のような形にならざるを
得ない。そのことを承知の上で、もしも読んでくださる人がいたならば、
気楽に目を通していただきたい。こちらも気楽に書いていく所存である。